次照光開発秘話/「お客様の目線」から生まれた。

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石材職人/次照光開発者 林田広行

昭和39年2月26日、宮崎県延岡市生まれ。

有限会社林田石材 前代表取締役。

宮崎県立延岡工業高校卒業後、バイク好きが高じて本田技研工業に入社。

三重県鈴鹿市の工場に3年半勤務後、実家の石材店を手伝う為に帰郷。

父である宗光のもと、石材職人としての修行を積む。

令和4年5月5日 永眠

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私は、地元に帰ってきて、職人としての道を歩み始めた頃とあまり時を違えずに、石材店の営業についても学び始めました。

 

とは言っても、どうすればよいかなど何も分かっていませんでした。

なかなかお客様からも相手にしていただけない中で、経営から営業、そして職人として石材加工の全般をほぼ一人で管理してきた、先代である父・宗光と、それをずっと支えてきた母・次子の横で、(叱られながら)商談にあたっていたような状況です。

 

 

しかし、そうした多くの失敗や悔しさの上に積み上げられた実地の経験により、少しずつ、私なりの考え方、営業の形を作って参りました。

 

職人として一通りの工程を自分の力で賄えるようになっていた30歳頃には、だんだんと私自身に芯ができてきていたということだと思いますが、昔からのお客様にも相手をしていただけるようになっており、会社の営業の部分を任されるようになっていました。

(それでも、いざという時、母の相手を包み込むような優しさに助けられていた部分が多々ありました。)

 

 

そうした中、お客様とお話していると、「納骨室の中が暗い」「中が見たいが扉が重くて見れない」などと言われることが多くありました。

 

また、建て替えや解体の場を多く経験している関係上、ほとんどの納骨室の中は湿気がこもってジメジメしていること、ゲジゲジやムカデ、クモ、ゴキブリなどの虫が発生してカビや虫の死骸・糞などで嫌な臭いが充満していることを知っていました。

 

 

石材職人として、どうにかできないかという気持ちはありましたが、「お墓の納骨室はそういうものだ」と思っていました。

 

今振り返ると、当時は、家族を亡くした人たちの「本当の悲しみ」をちゃんと理解できていなかったのかもしれません。

 

 

 

 

平成17年11月、最愛の母・次子が永眠しました。享年70歳。大の虫嫌いでした。

 

「大切な人を亡くす」その立場に、職人である自分自身が立つ。以後、「そんな環境に母の遺骨を納めたくない」「お墓は、自分もいつかは入る場所なんだ」と強く考えるようになり、「次照光」のアイデアが生まれました。

 

母の死が、お墓にとって当たり前と思われていたことを変えていくエネルギーを与えてくれたのだと思います。

 

 

 

 

それからは、試行錯誤の連続です。

 

周囲の人たちの協力を得ながら、現在の「次照光」を形作るアイデアを、一つずつ形にしていきました。

友人と、最初に手配したソーラーパネルとファンをつないで「おっ、回った!」と喜んだ日が懐かしく思い出されます。

 

 

ようやく製品としての形が出来上がってきて、試験的に取り付けを始めてからも、お客様から不具合を聞いたり、アドバイスを頂いたりしながら、30回以上の改良を重ね、ようやく現在のシステムが完成しました。

 

このころ付けた「次照光」の商品名は、母・次子、義母・照子、父・宗光の名前から1字ずつもらって名付けました。

 

 

またその後、遠隔地にいるなど墓守が大変な方たちのために、お墓を定期的にメンテナンスしていく仕組みも構築しました。

 

現在では設置数600基を超えた「次照光」のブランドが、これからも「お客様に安心して頂ける」ものであるために、今後もお客様の声に耳を傾けながら研究を続けて参ります。

 

(※本文は、2013年8月に作成した開発者・林田広行の言葉をそのまま掲載しています。)

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